社交体と根源的解釈

 

動機と概説〜ローティーの提案するリベラルな社会について〜

 

 リチャード・ローティーは、マイケル・オークショットの提示した「社交体(ソキエタス)*1」という概念を発展させ、公的なものと私的なもの(政治と哲学)の分離を訴えた。彼は、端的に言えば政治の語彙を極力減らす*2ことで、私的領域と公的領域とを分けるべきだと提案している。

 ローティーは、ある尺度のもとに哲学者を二種に分けて説明する。その尺度とは、公的なものと私的なものとを統一させようという努力、姿勢において、人間には共通の本姓がある、という認識だ。そのことを基盤とする者と、そのことに疑いの目を向ける者*3がいるが、双方とも公的なものと私的なものを結びつけようとしている点で誤っているという。

 

公共的なものと私的なものとを統一する理論への要求を捨て去り、自己創造の要求と人間の連帯の要求とを、互いに同等ではあるが永遠に共約不可能なものとみなすことに満足すれば、一体どういうことになるのかを明らかにすることが、本書の試みである。(リチャード・ローティ,『偶然性・アイロニー・連帯』,5,2000

 

 ローティーが念頭に置いているのは、彼が言うところの「リベラルな社会*4」だ。彼は、人が偶然性の中にいる、ということを認めるところから論を始め、従来は共同体について語られていたのとは別のボキャブラリーを使用することを提案している。何故なら、彼が言うところのリベラルな共同体について語ろうとする時、最早合理的か非合理的かといった区別が役に立たないからだ。

 

個人にとってと同じく共同体にとって、進歩とは、旧来の言葉で表された前提からの論証という問題にかぎられず、新しい言葉の使用という問題でもあるのだ、ということをいったん理解しさえすれば『合理的』『尺度』『論拠』『基礎づけ』そして『絶対』といった考えを中心にすえた批判的なボキャブラリーが旧来のものと新しいものの関係を記述する上で、まったく不適切だということがわかってくる。(同上,106

 

 以上のようなローティーの提案に対し、私は彼が描く「リベラルな社会」の創造がどのようにすれば可能なのかに関心を持った。そこに、超越的原理や既存の規則に依らない道徳の可能性を見たからである。また、ある種の行為や言明の正しさ(正当性)が何に由来するのかも気になっていて、もしもそのことがボキャブラリーの問題によって起こっているのだとすれば、ローティーの提案は「正しさ」が生まれる場面がどこであるのかを示しているように思われた*5

 

根源的解釈的な社会契約とパラダイムについて

 

 公共的領域と私的領域が「共約不可能(incommensurability)」であると言われているのに、何故両者が同等であるとされるのか。私は、ローティーに反し、そこにはやはり言語以外の「統一」を促す何かがあるのではないかと考える。そこで、社会契約的な状況を設定し、「共約不可能」な領域同士の間に横たわる断絶を再現しつつ、それは契約によって越境されるのだ、と想定した。私的領域と公的領域を「共約不可能」でありながら同等であることを維持するためには、何かしら共通の座標系となるものが必要なはずだ。社会契約によってそれは獲得されると考えたいが、しかし通常社会契約が想定する自然状態は、自然状態下の各人に潜在的な共通の座標系(契約後に獲得される筈のもの)をはじめから認めてしまっているように思われる。そこで、「共約不可能」であるまま、契約後に共通の座標系を獲得するという「解釈」は可能であろう(そうするしか方法はない)と考え、デイヴィドソンの「根源的解釈*6」を「社会契約*7」に重ねて論じようとした。

 また、各領域が「共約不可能」とされることから、それぞれを「パラダイム*8」とみなし、そのことによって社会契約の「自然状態」を相互不信の状態ではなく、相互に理解不可能な状態として記述することも試みた。

 

自然状態の解釈として帰属される合理性、道徳性について

 

 自然状態下にある各人を契約に至らしめるもの*9はなにか。私は、自然状態下の各人が有する合理性と道徳性であると考えた。社会契約の契約前を契約後とは別のパラダイムであると想定するのなら、契約前の各人は必ず合理的な存在だ、と考えねばならない*10。契約の前後で異なるのは、合理的かそうでないかではなく、合理性について語ることができるかどうかである。何故なら、契約前の各人に帰される合理性には、それがどのようなものであるかという実質がないからだ。根源的解釈的社会契約を結んで初めて、合理性に実質が与えられ、非合理的であることも可能となる。

 道徳性は、根源的解釈における「寛容の原則*11」の役割を果す。根源的解釈の場面では、対象言語の報告者は概ね嘘をつかないことが前提とされるが、根源的解釈的社会契約の場面では、契約の当事者達は概ね道徳的であることが前提とされるだろう。そのことにより、契約によって得られる合理性に実質が与えられる(パラダイム・シフトが起こる)ことになる。

 

ローティーに帰って

 

 さて、上記のような想定が成功するなら、それは何を意味するのか。ローティーが目指しているのは、連帯を「人間性そのもの」の同一化と区別する*12ことである。私は、道徳が繊細な人工物であること、そのことによって不安定ではあるが常に改定可能であることを示したかった。そうすることで、トートロジカルで遡行不可能な「正当性」というものを退けることができると考えたからだ。

 ローティーは、連帯を「人間性そのもの」の同一化と区別することで、リベラリストでありかつアイロニスト*13であることが可能であると考えている。公的領域と私的領域とを区別することが根源的解釈的社会契約によって可能になるのなら、道徳を「私たちのなかにある神的な部分の声」ではなく、解釈によって記述されるボキャブラリーにできるだろう。ボキャブラリーの変更を提案することで、道徳の改定が可能になるだろう。

 

 

 

*1:共通の目標によって統一された仲間意識をもった一団ではなく、互いを保護し合うという目的のために協力している、同調を避ける人々の一団として理解されている社会(同上,126

*2:ニュアンスを説明するのは難しいが、共同体に関する言説を、彼の言う「残酷さと苦痛の回避」に限るべきだという提案だと理解すればよい

*3:前者がマルクス、ミル、デューイ、ハーバーマスロールズ等であり、後者がキルケゴールニーチェボードレールプルーストハイデガーナボコフ等で、「アイロニスト」と呼ばれる。ローティーは前者を社会改革家、後者を文学者として捉えるべきだと提案している。例えば彼はハイデガーをこよなく愛しているが、ハイデガーの著書や言説が政治的な場面で使用・利用されることを忌避するのである

*4:「リベラルな社会という考え方の中心にあるのは、行為ではなく言葉、強制ではなく説得が維持される限り、なんでもありだということなのだ」(同上,112

*5:道徳性を私たちのなかにある神的な部分の声だと考えることをやめ、その代わりに共同体のメンバー、共通の言語の話し手としての私たち自身の声であると考えることができる場合にのみ、私たちは『道徳性』という考えを維持することができる(同上,125

*6:デイヴィドソンの提案によると、意味の理論は、ある言語に含まれている語の外延を 与える公理と、それらの語を結合するさまざまな方法によってどのような結果がもた らされるかを述べる公理とから成り立ち、こうした公理によって含意される定理(T -文)が、対象言語の文の意味論的性質を与える役割を担っているのであった。そし て、この役割は、対象言語の各文に対して、その文が真のときまたそのときに限って 真となるようなメタ言語の文を与えることによって果たされる。(サイモン・エヴニン,『デイヴィドソン 行為と言語の哲学』,209,1996)

*7:トマス・ホッブズによると、自然権を有した自然状態の各個人は自然法の機能不全により 万人の万人に対する闘争状態に陥っていたと仮定される。この闘争状態を克服する為に、各 個人が自然的理性を発現させ、自然権を放棄して社会契約を締結、契約に基づいて発生した 主権により国家が成立したとされていた。彼の論では契約の当事者に王が含まれず、最終的 に国王主権も正当化されるが、本論では連帯のない(非社会的な)個人があると仮定される 自然状態と、その連帯のない個人があるインセンティブによって契約を結び、自他を貫く基 準を創出するものとして社会契約を捉えたいと考えている。

 ジョン・ロックは、ホッブズと異なり、自然状態を各個人が自由かつ平等であったと記述 する。しかしそこで生じた様々な不都合により、やはりホッブズと同様自然権の一部を放棄 して始原的契約(original compact)を締結、国家が創出されたとした。そして、ホッブズ と同様やはり王は契約の当事者に含まれないが、人民の信託(trust)によって作られた政府が何らかの形で自然権を侵害した場合には、元の主権者である人民は抵抗権を行使するこ とができるとした点で、ホッブズとは異なった立場に立っていると言える。

*8:様々な使われ方をする語だが、ここでは「ある集団の成員によって共通して持たれる信念、価値、テクニックなどの全体的構成」として使っている。つまり、自然状態下の各人は、相互に異なったパラダイムの下にあると想定されるし、それが領域同士なら「共約不可能」なのである

*9:通常の社会契約では、自然的理性による

*10:デイヴィドソンによれば、合理性の帰属は探求の前提である

*11:寛大さは選択可能なもののひとつではなく、有効な理論を獲得するための条件である。 したがって、それを是認すると大きな誤りに陥るかもしれないと説くことは、無意味 である(ドナルド・デイヴィドソン,「概念枠という考えそのものについて」,『真理と解釈』,210,1991)

*12:私は『人間性そのもの』との同一化としての人間の連帯と、民主的な諸国家に住まう者たちにこの数世紀を通じてしだいに浸透してきた自己懐疑としての人間の連帯とを区別したい。それは、他者の苦痛や辱めを察知する私たち自身の感性への疑い、現在の制度的な編成がそうした苦痛や辱めに適切に対応し得ているかどうかへの疑いであり、それ以外の可能なオルタナティブへの関心である。私には『人間性そのもの』との同一化は不可能であるように思える。それは哲学者が発明したものであり、人間が神と一体になろうという観念を世俗化しようとする危険な試みに過ぎない。(中略)私自身の用語で言い換えれば、それは、あなたと私は同一の終極のボキャブラリーを共有しているかどうかという問と、あなたは苦痛をこうむっているのかどうかという問とを区別する能力である。(リチャード・ローティ,『偶然性・アイロニー・連帯』,411,2000

*13:リベラル・アイロニストによる連帯のイメージとは、以下のようなものである。「連帯という感情は必然的に、どのような類似性や非類似性が私たちによって顕著なものとして感じられるかということにかかわっており、何が顕著なものとして感じられるかは、歴史的に偶然的な終極のボキャブラリーのはたらきに依存しているということである」(同上,400